11月3日 午後1:57発 足尾~大間々 わたらせ渓谷鉄道 トロッコ列車の出発です。
窓のない車両、景色や風を直に体感しながら乗り物に乗る・・ということ自体が、遊園地のアトラクション的でワクワクします。
そして線路の脇にはずーっと渓谷の景色がある・・というのは、観光列車として最大の魅力でしょう。
が、もとはと言えば、この線路は、足尾銅山の産物である銅や亜ヒ酸を街まで運ぶ手段として敷かれたレールでした。
この線路がなかった時代は、馬が険しい渓谷の道を運んでいて、路肩が崩れて馬もろとも谷に落ちていったこともしょっちゅうあったとか・・・。
多くの人々や馬たちの犠牲があり、産業の近代化と効率化を悲願して造られた線路です。
日本の産業近代化の土木遺産であり、その歴史や苦悩や、また銅山のよってもたらされた公害のことに思いを馳せながら、下流の大間々までの景色を堪能したいと思いました。
以下 わたらせ渓谷鉄道HPより抜粋
『わたらせ渓谷鐵道は、群馬県桐生市 から栃木県日光市足尾町を結ぶ 鉄道で、足尾町にあった足尾銅山と 深いつながりがあります。
今から約400年前の 1610年(慶長15年)、 備前の国(いまの岡山県)から やって来た治部と内蔵という 二人の男性が、足尾の 山で銅を発見しました。
江戸時代には、盛んに銅鉱石 が掘られて東照宮や江戸城の 屋根に使われたり寛永通宝 というお金が作られたりしたため、 その後、足尾銅山からは殆ど 銅が取れなくなってしまいました。
1877年(明治10年)、 古河財閥の創業者・古河市兵衛が、 この廃山同然の足尾銅山を買い取り、 最新の技術を取り入れて 日本の銅の半分を 生産する銅山にしました。
明治時代の初めまで、産出した 銅や鉱山で使用する 材料の運搬は馬や 牛に頼っていましたが、生産量の 増加によってこれでは運びきれなくなりました。
その後、馬車鉄道による運搬を 始めましたが、さらにたくさんの荷物を運べるようにするために、 桐生から足尾まで鉄道を 建設することになりました。
1912年(大正元年)12月30日、 桐生から延伸してきた足尾鉄道が、 足尾駅まで開通しました。
その後、足尾鉄道は国の 重要路線であることから、1918年(大正7年)、 国が買い上げて鉄道院 (後の国鉄)の足尾線となりました。
国鉄として営業してきた足尾線は、 戦後、蒸気機関車がディーゼルカーやディーゼル機関車に 変わって近代化されましたが、 1973年(昭和48年)に足尾銅山が 閉山されると旅客・貨物ともに輸送量が 大きく減少し、1980年(昭和55年)ころから 赤字線の問題が起こり、1985年(昭和60年) までに廃止されることになりました。
しかし、沿線市民の間で足尾線を 残そうと言う活動が起こり、 1989年(平成元年)までJR東日本足尾線 として残りました(1987年に国鉄分割民営化で 国鉄足尾線→JR足尾線に)。
その後は、第三セクターである、わたらせ渓谷鐵道株式会社が 路線を引き継ぎ、 現在に至っています。
わたらせ渓谷鐵道になってからは、貨物輸送に 代わり観光客輸送に力を 入れており、1994年(平成6年) には年間の利用者が100万人を超えました。
また、1998年(平成10年)からは、観光列車「トロッコわたらせ渓谷号」の運転も始まり、観光のお客様に人気を博しています。』
足尾駅を出発してほどなく、隣の通洞駅に到着すると、予約客の団体さんがどわーっと乗ってきました。銅山観光とセットになっていたのでしょうね。
通洞駅の近くには、鉱山が閉山になって廃墟となった建物などがまだ残っていました。
鉱山で働く労働者たちの住まいだった、平屋の長屋住居の切妻屋根が並ぶ景色も残っていました。かつて最盛期だった時代の長屋住宅が建ち並ぶ映像は、「幸福の黄色いハンカチ」とか、炭鉱町を舞台にした映画などで見たものと同じようなものだったのでしょうか?おびただしい数の長屋が建ち並び、ひとつの町となり、集会所や商店や派出所なども建設されていたかもしれません。そんな景色も、もう今はなくなってしまっていますが、かつてこの辺はそうだったのかな・・と想像しながら眺めていました。
足尾銅山の公害は、製錬所から出るばい煙だけではありませんでした。足尾の山奥の松木村は、製錬所のばい煙で禿山となって廃村しましたが、この渡良瀬川に流れだした鉱毒は、下流下流へとその被害を拡大させていったのです。
遥か下流にある谷中村で、稲が枯れたり、作物が取れなくなったり、人々の健康被害が出たりして、亡くなる人もたくさんいたそうです。その原因が足尾銅山にあるのではないか・・・と立ち上がった田中正造の生涯は、壮絶なものでした。
結局、谷中村には、鉱毒が下流に行かないようにするための溜池を作られることとなり、村全体が廃村となりました。谷中村に住んでいた住民たちは、当時国が開墾を進めていた北海道の極寒の地に追いやられることになりました。
工業、産業によってもたらされる「富」を最優先し、その利に群がる財界人や業界人たちによって、人々の生命や健康なんかどーでもいいと棄てられ、しかも嫌がらせとも思える遠い土地に追いやられた人々がいたということ。故郷を捨てなければならず、その後、一生戻ってくることが出来なかった人々の悔しさや無念さに、憤りさえ感じます。
ですが、これは歴史上の過去の話ではないということ。今現在、原発の放射能に苦しめられ、住むところを追われ、故郷に戻れない人々がたくさんいる現代でも起こっていること。過去の苦々しい歴史に学ばず、人間は同じ過ちを犯し続ける生き物なのでしょうか?
川は、上流から下流へ、そして海までつながっていきます。生態系とか環境とか、小学生でも学校で学ぶけれど、そんなことは「富」を目の前にすると「何のこと??」になっちゃうのでしょうか?
トロッコ列車の車窓から見える渓谷に感嘆しながら、同時にそんな重たいことが頭をよぎったりもしました。
その46につづく。